羽生結弦選手は強心臓のイメージがありますが、小さい頃は人前で話すこともできない程のあがり症でした。
しかし今回の2018年平昌オリンピックを見ても、あれほどの大舞台での緊張やプレッシャーをものともせず、会場を呑みこむ気迫ある演技は圧巻でしたね!
怪我を乗り越え、リンクを颯爽と滑る姿に多くの人が心を打たれたのではないでしょうか。
なんでそんなに羽生結弦選手は本番に強いのでしょう!?
そして演技後のプーさんのシャワーにも驚きでしたよね!
スポンサーの如く羽生選手と共に登場する「くまのプーさん」との関係と、彼の生い立ちからいかに家族の応援があったのかその秘訣を探ってみました。
スケートのきっかけはお姉さん
まずは羽生結弦選手をよく知らない方のために、羽生選手のプロフィールをご紹介します。
- 生年月日 1994年(平成6年)12月7日
- 出身地 宮城県仙台市
- 家族 両親と姉との4人家族
- お父さんは地元中学の教頭先生
- お母さんは専業主婦
羽生選手は、ごく一般的な家庭に生まれたようです。
スケートを始めたのは4歳。お姉さんが通っているスケート教室に入りました。
2歳のころから喘息の持病がありその喘息を克服するために始めましたが、羽生選手は当初から体幹はしっかりとしていて「お姉ちゃんができるなら僕も!」とジャンプやスピンに果敢に取り組んだそうです。

引用元 http://www.yomiuri.co.jp/sports
常に挑戦をし続ける羽生選手の姿勢は、この頃から育っていたのですね♪
スケートを続けるため、家族が一丸となってサポート
羽生選手のお父さんは現在は地元中学の教頭で比較的裕福ではありますが、フィギュアスケートの費用はかなり高額です。お母さんはパートで勤め、試合の優勝賞金を全てスケートの費用に充ててやりくりしていたそうです。
一言で高額と言いましたが、フィギアスケートでは実際どれくらい費用がかかるのかと言いますと、月謝、レッスン代、さらにリンク使用料を合わせて月20万円以上にもなるんですよ!! 一般家庭ではなかなか捻出するのは難しいですよね。
ジュニアの頃は、羽生選手の衣装は全てお母さんの手作りで、髪もお母さんがカットしていたといいます。
お姉さんもかなりの腕前だっらしく18歳までスケートを続けましたが、経済的に2人ともスケートするのは困難。「結弦が辞めるくらいなら、私が辞める!」と、きっぱりスケートを辞めたそうです。
つかず離れず
羽生選手も小学校3~4年生の頃、練習を嫌がる時期があったと言います。その時お父さんは強制せず「嫌なら辞めてもいいんだぞ。」と一言。
お父さんの問いかけは、羽生選手にとってスケートへの思いを確認する良い機会になりました。羽生選手はスケートを続けることを選び、それ以降お父さんは見守る姿勢に徹したそうです。
お母さんは羽生選手に常に寄り添い体調や精神面をサポート。羽生選手の柔軟性ある演技は、スケートを始めた頃からお母さんに手伝ってもらって行ったストレッチの賜物なんですね。
東日本大震災で被災
2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災で、仙台出身の羽生選手(当時16歳)は家族で4日間の避難所生活を余儀なくされました。
「こんな状態でスケートなんて…」とスケートを諦めようと思いましたが、お母さんは「こんなときだからこそ滑らなくては!」と、駆けずり回ってスケート連盟やコーチに頭を下げ、練習再開を嘆願したそうです。
羽生選手が「自分のためだけに滑っているんじゃない!!」と言うようになったのはこの頃から。勝負強い演技を見せるようになったのもこの時期以降ではないでしょうか。
- これまでの成績
- 全日本選手権4連覇(2012年-2015年)
- グランプリファイナル4連覇(2013年-2016年)
- 2014年世界選手権優勝
- 2014年ソチオリンピック男子シングル金メダル
- 2017年世界選手権優勝
- 2018年平昌オリンピック男子シングル金メダル
こうしてみると2011年震災の次の年2012年から物凄い成績を立て続けに出していますよね!
羽生選手の素晴らしいところは、心が強いだけでなく周りへの感謝を忘れず、それをきちんと表すところだと思います。
羽生選手の家族を見習い、子供の頑張りを深い愛で支えられるようになりたいものですね。
なぜプーさん?
羽生結弦選手はなぜ、プーさんが好きなのでしょう?
その理由を、羽生選手本人が明かしたことがあります。
「顔が安定してるから。」これが、羽生選手がプーさんを愛してやまない一番の理由だそうです!
どんな時もハイレベルな演技を求められる羽生選手、プーさんの顔が精神安定剤になっているのかもしれませんね。
いつからプーさん好き?
羽生結弦選手のプーさん好きが世間に広まりだしたのは2015年ごろから。
リンクにプレゼントとしてプーさんが投げ込まれる「プーさんシャワー」もこのあたりから浸透し始めました。しかし、羽生結弦選手がプーさんを好きになったのはこれよりかなり前。
2011年には「プーさんのティッシュボックスカバー」を使い始めていました。

引用元 https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images
しかし大好きなプーさんのティッシュボックスカバーですが、2018年平昌オリンピックではその姿が見られませんでした。
会見で記者がそのことについて質問すると、「黄色いクマは、スポンサー(?)著作権(?)の問題で連れてくることができませんでした。」とコメントしています。
実はオリンピックは、ロゴや商標の規定が厳しく、キャラクターなどは持ちこめない規則になっているんですね。
それに配慮した羽生選手はプーさんをホテル待機にしたそうですが、平昌へはしっかり連れてきていると明かしました。ホテルで頭をポンポンとして、「行ってくるね!」とお別れをしてきたんですって!
これはもうスポンサーと言うより、相棒とか分身としか言いようがないですね!!
まとめ
羽生結弦と常に一緒のプーさんはスポンサーなのか? 金メダルの原動力は家族の応援にあり!?
- スケートのきっかけはお姉さん
- お姉さんは4つ年上です
- スケートを続けるため、家族が一丸となってサポート
- ここまでの情熱やお金を掛けれるということは、羽生結弦選手の才能やセンスを見抜いていたんですね!
- つかず離れず
- ご両親のコーチング力の賜物ですね
- なぜプーさん?
- 俗に言う「かわいい」だけではなかったんですね♪
- いつからプーさん好き?
- プーさんの前はスポンジボブのティッシュボックスカバーだったんですよ!?
いつものプーさんに代わり羽生選手のティッシュボックスカバーに抜擢されたのが「ショートケーキのカバー」。
なぜケーキ?と思ったのもつかの間、衝撃の事実が判明しました!
なんとこのケーキのティッシュボックスカバー、もともとはプーさんとピグレットがついたディズニー製品だったんです!!!
『羽生結弦選手はどこまでプーさんが好きなんだ!』と突っ込みを入れたくなりますね(笑)